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倉持麟太郎
2017.10.1 05:20

誰が「自分らしさ」を決めますか?

●自分で決める
親戚の家にいくと、こちらの食べたいものはさておき、「いいからこれを食べなさい」と言われて大量のコロッケを食べたりすることがある。このとき感じる違和感は、「自分の善は自分で決める」という命題に背くからだ。
しかし、これが進んで「いいから●●教を信じなさい」「いいから●●という道徳観を奉じなさい」という風に迫られた場合、コロッケのように黙って食べるか・・・??

●現代リベラリズムというプロジェクト
現代リベラリズムは、個人の自由を確保しながらも、その多様な個人が共生できるような仕組みとして、「公」と「私」を区分する。
つまり、各人が「善い」と思う道徳観や倫理観や信仰は「私」領域で大いに追求、構想してもらうが、それは「公」領域には持ち込まないという約束である。
「公」領域では、ある特定の「善」の道徳観や倫理観という価値観には立脚しない。あくまで「正しさ(正義)」を担保するよう努める。公領域に特定の価値観を持ち込まない約束のわかりやすい制度的な具体例が「政教分離原則」である。日本国憲法では20条(と89条)に規定があるが、人類は宗教観をかけて血みどろの戦いをしたという「共生の失敗」への反省からも、制度的に定着したものだ。

現代正義論・リベラリズムの旗手であるジョン・ロールズは、社会的決定の際には、正義のために各人が「無知のヴェール」をかぶり、あらゆる属性(人種・性別・年齢・道徳観等)及び関係性という利害から離れた決定をすべきであると論じた。これは、特定の価値や属性から離れた「個人」概念とも接合する。

これと対立する概念の筆頭は、共同体主義(communitarianism)である。
この共同体主義の代表的論者の一人が、近年「ハーバード白熱教室」で話題となったマイケル・サンデルである。
共同体主義者は、リベラリズムをこう批判する。公私を区分し、個人を「私」領域に放牧した結果、伝統や共同体とのつながりを意識しない個人が誕生してしまった。人は無重力状態に生きている(共同体主義者は「負荷なき自我 (the unencumbered self)」という)のではなく、共同体を含めた様々なものから「位置づけられた」自己であるはずであるというのである。
共同体とは、家族、コミュニティ、民族、突き詰めれば社会、そして国家である。「個人」のカウンターパートの概念としての「共同体」だと考えればいい。
このような発想を前提として、個人の考える「善」についても共同体から完全に独立して観念することはできず、個人の善き生についても、共同体が決定すべきで、ある種の「善導」すべきだ、と考える。
「共同体の考える最高の善はこれです、この善に基づいてあなたの生の遂行を構想してください」ということだ。
個人の善き生について、共同体が決定する契機を与えることになり、ひいてはリベラリズムが引いた「公」「私」のラインは相対化され、弱まる。
つまり、特定の道徳観や倫理観が、公においても好ましいものとされ、私領域における価値観にも優劣がつくようなことになりかねない。
道徳の教科書を通じてある特定の価値観を注入することなどはこの典型である。

この考え方がさらに進むと卓越主義(perfectionism)といって、ある卓越した善を共同体が個人に注入し善導すべきだ、という発想になる。道徳観や倫理観まで共同体(国家)が個人に注入していくことをむしろ奨励する。
こうなっていくと、我々の善き生が各人にとって多様であるという考え方とはかなり離れる。

●やっぱり自分の生は自分で決める
これは結局は、自分の考える「善き生」「自分らしく生きる」ということを誰が決めるのかということである。自分の生という物語の作者が誰か、という話である。
国家が決めるのか?共同体が決めるのか?完全に自分の生の構想が国家の描く構想と一生すべて寸分違わず一致しているという特異な人間を除いては、自分の「自分らしさ」は自分で決めたいはずである。たとえ共同体がよしとする善を加味するとしても、まずは他でもない自分が自らの善きがを大前提にしたいはずである。
これがリベラリズムの根底にある考え方である。
共同体主義の主張する「負荷なき自我」という批判には一理ある。しかし、これは、リベラリズムに対する批判というよりは、本来リベラリズムの想定する「個人」概念が要求する「相手の立場に立って考える」「自分が尊重されたい分だけ相手を尊重する」というテストを一切課さない「エゴ」と「エゴイズム」に対する批判であって、リベラリズムに対する根源的な批判にはならない。
まずもって、自己の条件(人種、性別、年齢、道徳観)では一切優劣や差異がない状態を善き生の構想のスタート地点とすべき、ということを前提とすることが、なんらかのイデオロギーだろうか。
自らの生の物語を執筆するペンを完全に他者に渡したいという人がどれだけいるだろうか。
そして、繰り返すが、これは二者択一を迫られるようなイデオロギーだろうか。

リベラルな個人概念を前提に、共同体主義等の概念と幸福な融合ができないかを模索するべきではなかろうか。実際、アメリカでは共同体主義的リベラリズムや、リベラルな共同体主義が台頭した。健全ではないか。

リベラリズムと共同体主義は相互の主張と反論を経て、より逞しい正義論を構築している。その前提は、他者を何らかの特定の条件で排斥しないというマナーである。

現代日本社会では、このリベラルという概念の歪みが著しい。保守対リベラルというのも、私は強い違和感を覚える。
特に、政治家のいう「保守」や「リベラル」は、いったい何を指すのか、いちいち説明してほしい。

一度無知のヴェールをかぶって「リセット」すべきは、誰だろうか

倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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